益田 飯浦 多賀是兵衛の墓

 多賀是兵衛は因幡の国の漁村に生まれ、朝鮮の役に従い、元和三年(1617年)亀井家二代亀井政矩の津和野入封により飯浦の令になる。交易船の船長を仰せつかり、交易に従事する。亡くなる時、朝鮮を望む高台に葬ってもらいたいと言い残し、人形道脇に墓が建てられた。江戸初期の人形道は山の高い所にあった。朝鮮の役により、船の航海技術が進み、東南アジアへと交易が広がり、島原の乱の頃に、西国大名の交易利益やキリスト教布教の問題から、日本は鎖国政策に入って行く。船の航海は北前船として江戸時代も残されていきました。
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